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凧印の移り変わり [浜松まつり]

大正~昭和期のおまつりのパンフレットなどを見ますと、うちほど凧印がコロコロ変わっている
町も珍しいんじゃないかと思うわけですが・・・。

推測するに、当時としてはまだ新しい町で、町内に所縁のある寺や神社、言い伝えもこれといって
目ぼしいのがなかったので色々と考えてみた、といったところでしょうか。

ただし、森川さん(大正生まれ)によれば『昔から初凧は「マ」で、他に毎年新しい図案を考えて
持っていった』とのことでした。2種類用意してたということですね。

五社神社の鳥居前(昭和23年頃).jpg
※中央、右手で提灯もってるのが森川さん。もうこの時(戦後再開頃)の凧印は今と同じですね。



判明している中で一番古いものがこちら、昭和3年のパンフレット。
syouwa3.jpg
森川さん曰く「こんな凧は見たこたねえなあ」。


次がこちら、昭和6年。
syouwa6.jpg
これは誰かの家に記録が残ってたとか。実際は背景の色が四色で「松四色(まつしぃろ)」。
森川さん「漢字で松ってのはあったよ」


これも昭和初期のパンフレット(凧研究会ブログから拝借・・・)。
『濱松の凧』1929-30②.jpg
森川さん「これは松の位置が違うに」


んで、こっち↓見てもらったところ
takojirusi.jpg
「これだ、こっちは覚えてる」とのこと。まあ両方あったんじゃないかと思います。


定かでないものだと、これが大正12年発行の絵葉書tako.jpg

森川さんの記憶では「子供の頃に三蓋松の凧印を揚げた」とのことでしたので、右のハガキの左下、
高町の「おかめ」の隣のがウチの凧でしょうか。他にそれっぽいのがないですね。

余談ですが、あの展示のイラストを書いた方は町内の某看板屋さんの先代のご主人です。
ご存命であれば、そのあたりのお話伺いたかったですね。

松城町 戦前の法被 [浜松まつり]

戦前に使われていた松城町の法被です。

戦前の法被.jpg


屋台誕生秘話 [浜松まつり]

今から60年も昔、まだ終戦間もない時期に、私たちの屋台はどのように誕生したのでしょうか?

そこで今回、大先輩のMさん(マ組凧印の図案者で現在でももちろん現役)に詳しいお話を聞くことができました。

昭和24年頃、青年会長を務めていたMさんが、当時の自治会長に屋台製作の協力をお願いしたところ、自治会長から「まつりなんかやるヒマがあったらうちの山で働け!」とまさに門前払い。協力を拒否されてしまいます。

そこで、血気盛んのMさん(今でも衰えていない・・?)はある日の夜、「コンチクショウ!!」とばかりに自治会長宅に若い衆を引き連れ、樽神輿を担いで家の中に練り込んだそうです。それでも気が治まらず、皆の制止を振り切って板塀にロープを掛け、オート三輪で引っ張り倒してしまいました。

いささかやりすぎてしまったMさんは、留置所に一晩お世話になってしまうのですが、この件で自治会長の息子さんと縁ができ(根負け?)、屋台製作を援助してもらう約束を取り付けたそうです。

なんとまあ、現代では有り得ない経緯ですが、Mさんの骨折りのおかげで松城町に屋台が誕生する事になったのです。



江間石材店前(昭和22年頃).jpg


先代の屋台 [浜松まつり]

戦後の再開頃から、現在の屋台が完成するまで引き廻していた屋台です。
現在も、舞阪町岐佐神社のお祭りで使っていただいています。



先代屋台 .jpg

松城町青年団歌 [浜松まつり]

『松城町青年團歌』 作詞 相葉繁作 (曲譜不明)

一、東海のはて日出づる処  金光燦然四海を照し
   わだつみ上にただよふ金波  六合の空今朝なり

二、黎明の天旗手は我なり  正義の御旗ひるがへしつつ
   声高らかに御国ほめなん  国は千古に不易の真理

三、ああ名もゆかし松城の空  つどふ若人望は高く
   朝に仰ぐ富士が霊峰  夕に讃むるそのけ高さを

四、義に勇み立つ我等がつどひ  御国の真理示さん時は
   日頃鍛えしこの鉄腕を  ふるはじ妖鬼何ぞ恐れん

五、春は谷より鶯の声  野山に満ちて声の愛しく
   芳香正に百花の頭  梅の花こそげにめでたけれ

六、梅にもたぐふ我が団の名を  世界のはてにとどろかしてん
   立てよ松城青年団よ  奮えよ松城青年団よ


『郷土歌集「楽乃音」』(昭和11年 浜松市役所学務課発行)より

浜松宿町別戸数調(明治10年) [松城町の歴史]

明治10年、浜松県浜松宿の町別戸数一覧です。
文字が小さいので、画像をクリックして別ウインドウで見てください。

町別戸数調べ.jpg

大工棟梁「三嶽一郎」氏について [浜松まつり]

三嶽一郎氏は、戦後の浜松を代表する宮大工の名匠で、数多くの寺社や屋台の建築を手がけられました。

三嶽氏は、明治41年に浜松で生まれ、父の三嶽駒吉氏の元で18歳から宮大工の仕事を始めます。亡くなった父の跡を継いで独立した三嶽氏が最初に手掛けた屋台は、終戦後の昭和25年に落成した田町のもので、この時は戦火で焼失した戦前の屋台(父・駒吉氏が建造)を写した一枚の写真だけを元に造り上げたそうです。

以降、常盤町、伝馬町、広沢町と続き、松城町の屋台が5番目の作品です。三嶽氏の手がけた屋台はいずれも特徴的ながら優雅で美しく、均整と調和のとれた見事な姿で、数ある浜松屋台の中にあっても一際存在感を示しています。

昨年度、松城町の屋台の改修をお願いした早川真匠氏は三嶽氏の直弟子で、近年高丘や和田町などの屋台の新造を手掛けるなど、三嶽氏の伝統の技を受け継いで活躍されています。


三嶽一郎氏製作の浜松屋台
田町(昭和25年)
常盤町(昭和28年)
伝馬町(昭和30年)
広沢町(昭和32年)
松城町(昭和34年)
元城町(昭和35年)
和地山町(昭和35年)※平成4年焼失
東上池川(昭和35年)
下池川町(昭和36年)
東菅原町(昭和37年)
西上池川(昭和38年)
鴨江町(昭和42年)
西菅原町(平成3年)

早川真匠氏製作の浜松屋台
萩丘(平成14年)
高丘(平成16年)
和田町(平成19年)



DSC01569.JPG


タグ:浜松まつり

松城町の凧印 [浜松まつり]

昔は凧合戦に使われる凧印には、鶴亀、日の出など祝いの図柄が多かったようですが、町単位での凧合戦が行われるようになると、それぞれの町を表す絵や字に変わってきました。

松城町はこれまでとりわけ多くの凧印が使われており、十数種類もの図案の記録が残っています。現在の凧印に定まったのは戦後の再開頃からで、遠くに揚がっていても一目で判断しやすいような工夫が施されています。


松城町で使われた凧印の図案(一部)
・青の縦縞に赤字で「松」
・「松」の字を「木」と「公」に分けて縦に組み合わせた図案
・松の絵を四ヶ所に配し、真ん中に「呂」を書いて「松四呂」と読む判じ絵
・「し」を丸く描き、中に「満」(「ま」の変体仮名)と「つ」、外に「呂」で「満つし呂」
・四色の縦縞に「松」で「松四色(まつしいろ)」と読む判じ絵
・丸に三蓋松
・旭日旗
・太さが均一のカタカナの「マ」


戦前の松城町の凧印
戦前の凧印.jpg


昔の凧印(昭和6年) [浜松まつり]

濱松の凧 昭和6年度版

昭和6年凧揚げパンフレット.jpg





昔の凧印(昭和3年) [浜松まつり]

濱松乃凧 昭和三年度版

昭和3年凧揚げパンフレット.jpg



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