松城町の歴史(その5)『浜松高等女学校』 [松城町の歴史]

『浜松高等女学校』

かつて「馬冷」には現在の浜松市立高校の前身の浜松高等女学校がありました。同校は明治34年4月に、元城にあった浜松幼稚園の建物を借りて授業を開始しますが、生徒の増加に伴って明治37年に「馬冷」に校舎を新築して移転します。明治38年、39年にそれぞれ50名ずつ入学し、明治40年には定員が400名と倍増され、1学年100名を入学させることになりました。

明治44年に市制施行によって浜松市立浜松高等女学校に改称し、いつ頃からか一口に「いちりつ」と呼ばれるようになります。

校舎があったのは現在の開誠館高校と中央図書館の間の一帯で、敷地には木々が鬱蒼と茂りその周りには堀につながる小さな川が廻っていましたが、現在は住宅地になっていて当時の面影は残っていません。また、校舎西側には長谷川鉄雄氏の私邸(現浜松開誠館)の一画を借りて、寄宿舎「曳馬野寮」(木造2階建て)が作られています。

卒業生で作家の「鷹野つぎ」女史は、著書「春夏秋冬」の中で、馬冷の校舎を次のように記しています。

『閑寂な一郭で、前方の天主閣の外濠を距てて、 森が土堤をなぞへに見透しもつかないほど深々と繁ってゐた。 春先は爽やかな新緑に彩られ、 夏は森をわたる風で涼気を送ってきた。 秋は紅葉がところどころ点綴せられて美しかった。』

入学希望者が多く、大正12年には定員800人まで膨れ上がりますが、それでも倍以上の志願者が殺到したと言います。馬冷校舎も手狭となり、同年「作左山」に校舎を新築し移転します。灰青色のペンキで塗られた作左山の新校舎は、木造2階建ての敷地3455坪、建物860坪、運動場200坪と旧校舎の3倍近い広さがありました。

昭和20年、太平洋戦争の空襲によって校舎が焼失し、これを機に市立高女は広沢の浜松工業学校の跡地へと再移転、その場所は中部中学校となって現在に至ります。今でも中部中学校の石段で結んだ上下二段の運動場の配置は市立高女時代と同じで、石段わきの藤棚と大きな銀杏の木も、当時と変わらぬ場所にあります。


「鎧掛けの松(右)と馬冷校舎(左奥)」
鎧掛けの松(右)と馬冷校舎(左奥)1.jpg

























「作左山校舎」
sakuzayamakousya.JPG


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