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浜松宿町別戸数調(明治10年) [松城町の歴史]

明治10年、浜松県浜松宿の町別戸数一覧です。
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町別戸数調べ.jpg

松城町の歴史(その8)『浜松市動物園』 [松城町の歴史]

『浜松市動物園』

松城町に所在した「浜松市動物園」は、浜松城址の起伏の激しい地形をそのまま利用して作られました。同園は浜松駅から至近距離にあって交通の便が良く、また当時は県内で唯一の動物園ということもあって市民ばかりでなく市外からも多くの来園者が訪れ、東海地区有数の人気動物園として賑わいを見せました。

同園が開園したのは昭和25年11月20日で、その前に市制40周年記念行事として同所で「浜松市子供博覧会」が開かれていましたが、その時すでに恒久的な動物園施設を作ろうという構想がもたれ、ゾウ、ライオン、キリンなどの基幹となる動物の展示が行われています。また、博覧会では他に、当時普及していなかった自動車の展示、科学博物館、お化け屋敷などが併設されていました。

開園した動物園では、ゾウの浜子が旗振り、ラッパ吹き、挨拶などの曲芸を披露して、同園のシンボル的な存在となりました。リリーというチンパンジーが数々の芸を演じて来園者の喝采を博していましたが高齢になって引退すると、後継としてチン太が入って芸を演じます。また、ウマとシマウマの混血の「ホーブラ」がおり、珍種として話題を集めました。

同園の特色として、鳥の一大聚楽を作るという構想から水禽類が多く集められ、白鳥をはじめ、黒鳥、アヒル、鶴、ペリカン、フラミンゴ等が飼育され、ペンギンは入口付近の専用プールで展示されていました。孔雀が園内を自由に動き回っているのも同園お馴染みの楽しい光景です。他にもトラ、ヒグマ、ラクダ、ダチョウ、ワシなど多種多様な動物が飼育されていました。

また、この動物園には日本でもまだ珍しかったロープウェイが作られ、昭和30年代の初め頃まで、天守台から作左山の間を運行していました。他にも観覧車やゴーカートなどの遊具が設けられています。

昭和58年4月、周辺の都市化に伴い、動物園は現在地である浜松市北西部の舘山寺町に移転しました。これにより跡地は本格的な都市公園としての整備が始まり、浜松城の景観にふさわしい日本庭園や作左の森等が完成します。緑の少ない市街地にあって、豊かな森に囲まれた公園は浜松市のセントラルパークとして多くの市民に親しまれています。


昭和28年頃の動物園
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松城町の歴史(その7)『浜松市立中部中学校』 [松城町の歴史]

『中部中学校』

戦後の教育改革で小中高制度がスタートし、旧制中学が高等学校となり、高等学校と小学校の間に中学校が設けられることになると、その制度の申し子として、終戦直後の昭和22年4月、市立高女の跡地に浜松市立中部中学校が誕生しました。

旧市立高女跡に開校したものの、そこには焼夷弾で大穴の空いた雨天体操場があるだけで、そこが唯一の屋根のある場所でした。運動場は食糧不足のために全部が耕地化されていて、ジャガイモが作付けされていたといいます。

窓のない雨が漏る雨天体操場を6つに区切って仮教室を作り、北小から机80卓を借用し、午前登校と午後登校の2部制を実施して何とか授業が始められました。第2学期の9月末に、焼け残りの校舎の壁に屋根をつけて2教室とし2部制を廃止しますが、帰還市民の増加による生徒増に抜本的な対応策が無く、第2年度には北小と広沢小の教室を借りて、3ヶ所での分散授業を余儀なくされます。

それからも生徒増と教室増設は続き、昭和32年になると全校で37学級編成となりますが、同年蜆塚に12教室が完成し、蜆塚教場として分散授業を開始します。昭和35年には、蜆塚教場が蜆塚中学校として独立し、広沢小区の全生徒が異動しました。現在の校舎は昭和48年に落成、昭和57年に耐震補強工事が行われています。

現在、少子化や中心市街地のドーナツ化の影響により生徒数は少ないながらも、学校周辺には文化施設や史跡が多く、また伝統ある同校に対する地域住民や保護者からの関心や愛着が高く学校活動に非常に協力的であるなど、恵まれた環境の中で勉学や活動に励んでいます。



昭和25年頃の中部中学校校舎
中部中学校(昭和25年頃).jpg


松城町の歴史(その6)『浜松開誠館』 [松城町の歴史]

『浜松開誠館』

大正13年に「馬冷」に誠心高女(現浜松開誠館高校)が開校します。当時、男子には浜松中学校(現浜松北高校)、商業学校(現浜松商業高校)、工業学校(現浜松工業高校)がありましたが、女子は市立高女のみで西遠女子学園、浜松学芸高校の前身はまだ裁縫学校の域を脱していない状況にあり、こうした状況をみた実業家の長谷川鉄雄氏が松城の自宅3000坪を解放し、ここに女子学校を開校します。

はじめ4年制で定員が400名、次いで昭和2年に5年制定員500名となり、その年に新校舎が落成します。この校舎は浜松出身の建築家、中村與資平氏による設計で、一部を当時では珍しい鉄筋コンクリートで建てられました。昭和20年4月、空襲による火災で木造部分を焼失しますが、鉄筋部分は焼け残ったため戦後しばらくそこで授業が続けられたといいます。

昭和23年に木造校舎が落成、昭和35年には鉄筋コンクリートの3階建て校舎が落成し、以降次々に施設・設備の拡充がはかられています。平成10年に共学化となり、それに伴って学校名を「浜松開誠館中学校・高等学校」に変更。平成12年には、地上9階建ての新校舎が落成しました。


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松城町の歴史(その5)『浜松高等女学校』 [松城町の歴史]

『浜松高等女学校』

かつて「馬冷」には現在の浜松市立高校の前身の浜松高等女学校がありました。同校は明治34年4月に、元城にあった浜松幼稚園の建物を借りて授業を開始しますが、生徒の増加に伴って明治37年に「馬冷」に校舎を新築して移転します。明治38年、39年にそれぞれ50名ずつ入学し、明治40年には定員が400名と倍増され、1学年100名を入学させることになりました。

明治44年に市制施行によって浜松市立浜松高等女学校に改称し、いつ頃からか一口に「いちりつ」と呼ばれるようになります。

校舎があったのは現在の開誠館高校と中央図書館の間の一帯で、敷地には木々が鬱蒼と茂りその周りには堀につながる小さな川が廻っていましたが、現在は住宅地になっていて当時の面影は残っていません。また、校舎西側には長谷川鉄雄氏の私邸(現浜松開誠館)の一画を借りて、寄宿舎「曳馬野寮」(木造2階建て)が作られています。

卒業生で作家の「鷹野つぎ」女史は、著書「春夏秋冬」の中で、馬冷の校舎を次のように記しています。

『閑寂な一郭で、前方の天主閣の外濠を距てて、 森が土堤をなぞへに見透しもつかないほど深々と繁ってゐた。 春先は爽やかな新緑に彩られ、 夏は森をわたる風で涼気を送ってきた。 秋は紅葉がところどころ点綴せられて美しかった。』

入学希望者が多く、大正12年には定員800人まで膨れ上がりますが、それでも倍以上の志願者が殺到したと言います。馬冷校舎も手狭となり、同年「作左山」に校舎を新築し移転します。灰青色のペンキで塗られた作左山の新校舎は、木造2階建ての敷地3455坪、建物860坪、運動場200坪と旧校舎の3倍近い広さがありました。

昭和20年、太平洋戦争の空襲によって校舎が焼失し、これを機に市立高女は広沢の浜松工業学校の跡地へと再移転、その場所は中部中学校となって現在に至ります。今でも中部中学校の石段で結んだ上下二段の運動場の配置は市立高女時代と同じで、石段わきの藤棚と大きな銀杏の木も、当時と変わらぬ場所にあります。


「鎧掛けの松(右)と馬冷校舎(左奥)」
鎧掛けの松(右)と馬冷校舎(左奥)1.jpg

























「作左山校舎」
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松城町の歴史(その4)『作左』 [松城町の歴史]

『作左』「作左」の地名の由来となった「本多(作左衛門)重次」は、『仏高力(高力清長)、鬼作左、どちへんなしの天野三郎兵衛(天野康景)』と謳われた家康三河時代からの三奉行の一人で、勇猛果敢で剛毅な性格より「鬼作左」と称されました。鬼の名を付けられるような厳格な人物でしたが、公平清廉で民衆から慕われていたと言います。武将としても三河一向一揆鎮圧戦、高天神の戦い、長篠の戦い、蟹江城攻略などで大いに活躍し戦功を挙げました。また、これらの合戦による戦傷のため、片目片足で指も何本か欠損していたとも伝えられています。小牧・長久手の戦の後、秀吉の要請により家康が大坂(大阪)城へ上洛する際に、秀吉の母大政所が人質として岡崎に下向します。その世話役を務めた重次は、居館に柴を積み上げ「家康公万が一の時には火を掛ける」と脅したことで秀吉から不興を買い、この一件により重次殺害の命がありましたが家康は病死したと報告し、上総国古井戸に閑居させています。のちに下房国相馬郡井野(茨城県取手市井野)に移り68歳で没します。家康は、自分が天下人となった時、嫡男である本多成重に越前国丸岡藩主(四万石)を与え彼の恩に報いました。かつて、陣中から留守を預かっている妻に宛てた手紙は、現在でも実用手紙の模範とされている有名なものです。 『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ』火の用心をし、子供を大切に育てて欲しい、馬に十分に餌を与えるように。出陣中は、妻のお前が家を大切に守れというものです。当時の武将にとって、馬は一番大事な戦具の一つでした。このお仙は、長男の成重のことです。作左の名は、今でも浜松城公園の中に「作左山」、「作左の森」として残されています。また、中部中学校では生徒を主体とする活動を「さくざ」と称し、校歌や家庭への通信にもこの名が使用されるなど、この所縁ある歴史上の人物を大切に扱っています。本多重次像画像
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