松城町の歴史(その4)『作左』 [松城町の歴史]

『作左』「作左」の地名の由来となった「本多(作左衛門)重次」は、『仏高力(高力清長)、鬼作左、どちへんなしの天野三郎兵衛(天野康景)』と謳われた家康三河時代からの三奉行の一人で、勇猛果敢で剛毅な性格より「鬼作左」と称されました。鬼の名を付けられるような厳格な人物でしたが、公平清廉で民衆から慕われていたと言います。武将としても三河一向一揆鎮圧戦、高天神の戦い、長篠の戦い、蟹江城攻略などで大いに活躍し戦功を挙げました。また、これらの合戦による戦傷のため、片目片足で指も何本か欠損していたとも伝えられています。小牧・長久手の戦の後、秀吉の要請により家康が大坂(大阪)城へ上洛する際に、秀吉の母大政所が人質として岡崎に下向します。その世話役を務めた重次は、居館に柴を積み上げ「家康公万が一の時には火を掛ける」と脅したことで秀吉から不興を買い、この一件により重次殺害の命がありましたが家康は病死したと報告し、上総国古井戸に閑居させています。のちに下房国相馬郡井野(茨城県取手市井野)に移り68歳で没します。家康は、自分が天下人となった時、嫡男である本多成重に越前国丸岡藩主(四万石)を与え彼の恩に報いました。かつて、陣中から留守を預かっている妻に宛てた手紙は、現在でも実用手紙の模範とされている有名なものです。 『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ』火の用心をし、子供を大切に育てて欲しい、馬に十分に餌を与えるように。出陣中は、妻のお前が家を大切に守れというものです。当時の武将にとって、馬は一番大事な戦具の一つでした。このお仙は、長男の成重のことです。作左の名は、今でも浜松城公園の中に「作左山」、「作左の森」として残されています。また、中部中学校では生徒を主体とする活動を「さくざ」と称し、校歌や家庭への通信にもこの名が使用されるなど、この所縁ある歴史上の人物を大切に扱っています。本多重次像画像
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。