松城町の屋台 [浜松まつり]

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屋台の始まりは明治の末頃、凧合戦の帰りに大八車の四隅に柱を立てて凧を屋根がわりにして引いていたところ、伝馬町若松座の「森三之助」という役者が伝馬や千歳の芸者衆と一緒になって鐘や太鼓で囃し立てたのがきっかけと言われています。

花や提灯を飾りつけた浜松独特の底抜け屋台が生まれたのは大正4年、その後大正10年にお囃子が乗れる屋台が登場します。昭和の初めには、現在のような二重屋根で彫り物がたくさん嵌められた豪華な屋台が続々と完成するなど、時代が進むにつれ豪華な屋台となっていきました。太平洋戦争の戦火によって市内のほとんどの屋台が焼失しますが、浜松っ子の情熱で昭和20年代後半から30年代にかけて次から次へと復元されています。

戦前の松城町には手作りの底抜け屋台しかありませんでしたが、終戦直後に当時自治会長だった材木商の加藤尹さんのお孫さんの初節句の際に木材の寄付をみて、小振りながら二層式の屋台が作られました。昭和25年ごろから数年間、この屋台を引き回していましたが、同じ頃に田町、鍛冶町、常盤町などで戦前と同じような大型で彫刻の施された屋台が復活すると、松城町も他町に負けてなるものかとすぐに新しい屋台を作ることになり、再び加藤さんに木材の寄付を依頼します。祭りの参加を3年間見送って蓄財に勤め、ついに昭和34年に待望の屋台が完成しました。新しい屋台は材料のほとんどを天竜川の檜の白木を使う豪華なもので、町民の自慢となりました。

制作費は当時の金額で300万円だったとも伝えられており、これを現在の貨幣価値に換算すると、6~7千万円ほどになります。しかし、それでも予算は不足し、彫刻については追い追いに仕上げていくことになりましたが、結局50年を経過した現在でも脇障子・欄間・腰回り・見送りの御簾脇等には彫り物が入っておらず、未完の作品のままとなっています。



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