松城町青年団歌 [浜松まつり]
『松城町青年團歌』 作詞 相葉繁作 (曲譜不明)
一、東海のはて日出づる処 金光燦然四海を照し
わだつみ上にただよふ金波 六合の空今朝なり
二、黎明の天旗手は我なり 正義の御旗ひるがへしつつ
声高らかに御国ほめなん 国は千古に不易の真理
三、ああ名もゆかし松城の空 つどふ若人望は高く
朝に仰ぐ富士が霊峰 夕に讃むるそのけ高さを
四、義に勇み立つ我等がつどひ 御国の真理示さん時は
日頃鍛えしこの鉄腕を ふるはじ妖鬼何ぞ恐れん
五、春は谷より鶯の声 野山に満ちて声の愛しく
芳香正に百花の頭 梅の花こそげにめでたけれ
六、梅にもたぐふ我が団の名を 世界のはてにとどろかしてん
立てよ松城青年団よ 奮えよ松城青年団よ
『郷土歌集「楽乃音」』(昭和11年 浜松市役所学務課発行)より
一、東海のはて日出づる処 金光燦然四海を照し
わだつみ上にただよふ金波 六合の空今朝なり
二、黎明の天旗手は我なり 正義の御旗ひるがへしつつ
声高らかに御国ほめなん 国は千古に不易の真理
三、ああ名もゆかし松城の空 つどふ若人望は高く
朝に仰ぐ富士が霊峰 夕に讃むるそのけ高さを
四、義に勇み立つ我等がつどひ 御国の真理示さん時は
日頃鍛えしこの鉄腕を ふるはじ妖鬼何ぞ恐れん
五、春は谷より鶯の声 野山に満ちて声の愛しく
芳香正に百花の頭 梅の花こそげにめでたけれ
六、梅にもたぐふ我が団の名を 世界のはてにとどろかしてん
立てよ松城青年団よ 奮えよ松城青年団よ
『郷土歌集「楽乃音」』(昭和11年 浜松市役所学務課発行)より
大工棟梁「三嶽一郎」氏について [浜松まつり]
三嶽一郎氏は、戦後の浜松を代表する宮大工の名匠で、数多くの寺社や屋台の建築を手がけられました。
三嶽氏は、明治41年に浜松で生まれ、父の三嶽駒吉氏の元で18歳から宮大工の仕事を始めます。亡くなった父の跡を継いで独立した三嶽氏が最初に手掛けた屋台は、終戦後の昭和25年に落成した田町のもので、この時は戦火で焼失した戦前の屋台(父・駒吉氏が建造)を写した一枚の写真だけを元に造り上げたそうです。
以降、常盤町、伝馬町、広沢町と続き、松城町の屋台が5番目の作品です。三嶽氏の手がけた屋台はいずれも特徴的ながら優雅で美しく、均整と調和のとれた見事な姿で、数ある浜松屋台の中にあっても一際存在感を示しています。
昨年度、松城町の屋台の改修をお願いした早川真匠氏は三嶽氏の直弟子で、近年高丘や和田町などの屋台の新造を手掛けるなど、三嶽氏の伝統の技を受け継いで活躍されています。
三嶽一郎氏製作の浜松屋台
田町(昭和25年)
常盤町(昭和28年)
伝馬町(昭和30年)
広沢町(昭和32年)
松城町(昭和34年)
元城町(昭和35年)
和地山町(昭和35年)※平成4年焼失
東上池川(昭和35年)
下池川町(昭和36年)
東菅原町(昭和37年)
西上池川(昭和38年)
鴨江町(昭和42年)
西菅原町(平成3年)
早川真匠氏製作の浜松屋台
萩丘(平成14年)
高丘(平成16年)
和田町(平成19年)
三嶽氏は、明治41年に浜松で生まれ、父の三嶽駒吉氏の元で18歳から宮大工の仕事を始めます。亡くなった父の跡を継いで独立した三嶽氏が最初に手掛けた屋台は、終戦後の昭和25年に落成した田町のもので、この時は戦火で焼失した戦前の屋台(父・駒吉氏が建造)を写した一枚の写真だけを元に造り上げたそうです。
以降、常盤町、伝馬町、広沢町と続き、松城町の屋台が5番目の作品です。三嶽氏の手がけた屋台はいずれも特徴的ながら優雅で美しく、均整と調和のとれた見事な姿で、数ある浜松屋台の中にあっても一際存在感を示しています。
昨年度、松城町の屋台の改修をお願いした早川真匠氏は三嶽氏の直弟子で、近年高丘や和田町などの屋台の新造を手掛けるなど、三嶽氏の伝統の技を受け継いで活躍されています。
三嶽一郎氏製作の浜松屋台
田町(昭和25年)
常盤町(昭和28年)
伝馬町(昭和30年)
広沢町(昭和32年)
松城町(昭和34年)
元城町(昭和35年)
和地山町(昭和35年)※平成4年焼失
東上池川(昭和35年)
下池川町(昭和36年)
東菅原町(昭和37年)
西上池川(昭和38年)
鴨江町(昭和42年)
西菅原町(平成3年)
早川真匠氏製作の浜松屋台
萩丘(平成14年)
高丘(平成16年)
和田町(平成19年)
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松城町の凧印 [浜松まつり]
昔は凧合戦に使われる凧印には、鶴亀、日の出など祝いの図柄が多かったようですが、町単位での凧合戦が行われるようになると、それぞれの町を表す絵や字に変わってきました。
松城町はこれまでとりわけ多くの凧印が使われており、十数種類もの図案の記録が残っています。現在の凧印に定まったのは戦後の再開頃からで、遠くに揚がっていても一目で判断しやすいような工夫が施されています。
松城町で使われた凧印の図案(一部)
・青の縦縞に赤字で「松」
・「松」の字を「木」と「公」に分けて縦に組み合わせた図案
・松の絵を四ヶ所に配し、真ん中に「呂」を書いて「松四呂」と読む判じ絵
・「し」を丸く描き、中に「満」(「ま」の変体仮名)と「つ」、外に「呂」で「満つし呂」
・四色の縦縞に「松」で「松四色(まつしいろ)」と読む判じ絵
・丸に三蓋松
・旭日旗
・太さが均一のカタカナの「マ」
戦前の松城町の凧印
松城町はこれまでとりわけ多くの凧印が使われており、十数種類もの図案の記録が残っています。現在の凧印に定まったのは戦後の再開頃からで、遠くに揚がっていても一目で判断しやすいような工夫が施されています。
松城町で使われた凧印の図案(一部)
・青の縦縞に赤字で「松」
・「松」の字を「木」と「公」に分けて縦に組み合わせた図案
・松の絵を四ヶ所に配し、真ん中に「呂」を書いて「松四呂」と読む判じ絵
・「し」を丸く描き、中に「満」(「ま」の変体仮名)と「つ」、外に「呂」で「満つし呂」
・四色の縦縞に「松」で「松四色(まつしいろ)」と読む判じ絵
・丸に三蓋松
・旭日旗
・太さが均一のカタカナの「マ」
戦前の松城町の凧印
松城町の屋台 [浜松まつり]
屋台の始まりは明治の末頃、凧合戦の帰りに大八車の四隅に柱を立てて凧を屋根がわりにして引いていたところ、伝馬町若松座の「森三之助」という役者が伝馬や千歳の芸者衆と一緒になって鐘や太鼓で囃し立てたのがきっかけと言われています。
花や提灯を飾りつけた浜松独特の底抜け屋台が生まれたのは大正4年、その後大正10年にお囃子が乗れる屋台が登場します。昭和の初めには、現在のような二重屋根で彫り物がたくさん嵌められた豪華な屋台が続々と完成するなど、時代が進むにつれ豪華な屋台となっていきました。太平洋戦争の戦火によって市内のほとんどの屋台が焼失しますが、浜松っ子の情熱で昭和20年代後半から30年代にかけて次から次へと復元されています。
戦前の松城町には手作りの底抜け屋台しかありませんでしたが、終戦直後に当時自治会長だった材木商の加藤尹さんのお孫さんの初節句の際に木材の寄付をみて、小振りながら二層式の屋台が作られました。昭和25年ごろから数年間、この屋台を引き回していましたが、同じ頃に田町、鍛冶町、常盤町などで戦前と同じような大型で彫刻の施された屋台が復活すると、松城町も他町に負けてなるものかとすぐに新しい屋台を作ることになり、再び加藤さんに木材の寄付を依頼します。祭りの参加を3年間見送って蓄財に勤め、ついに昭和34年に待望の屋台が完成しました。新しい屋台は材料のほとんどを天竜川の檜の白木を使う豪華なもので、町民の自慢となりました。
制作費は当時の金額で300万円だったとも伝えられており、これを現在の貨幣価値に換算すると、6~7千万円ほどになります。しかし、それでも予算は不足し、彫刻については追い追いに仕上げていくことになりましたが、結局50年を経過した現在でも脇障子・欄間・腰回り・見送りの御簾脇等には彫り物が入っておらず、未完の作品のままとなっています。
浜松まつりの歴史 [浜松まつり]
遠州灘から「遠州のからっ風」とも呼ばれる強い風が吹く浜松は、昔から凧揚げが盛んな土地でした。
江戸時代の中期、庶民の暮らしが向上し遊戯が盛んになると、長男が生まれた家庭では端午の節句に凧を揚げ、その子の健やかな成長と家門繁栄を願うという「初凧」の風習が生まれました。また、凧を揚げる町内の若衆に酒と食事を振る舞う習わしも、この頃から始まったと言われています。この「初凧」の風習は日本全国で行われ、特に太平洋沿岸地域で盛んだったようです。現在でも浜松以外に相良・横須賀(掛川)などで、まだこの風習が残っています(wikipediaより)。
浜松の凧の醍醐味は何と言っても「凧合戦」です。相手の町と糸を絡めて力強く引き、怒号と喧騒と舞い上がる砂埃の中、町同士の意地と意気のぶつかり合いは、激しさを増します。この力強く切り合いに挑む姿こそが子供の健やかな成長への祈りであり、体中汗まみれ、砂まみれになり合戦に望むその姿は昔から変わりません。
戦争のために長期にわたって中止されていましたが、戦争が終わるとすぐに復活します。参加町はしばらく50~60町程で行われていましたが、昭和50年頃から急激に増加。昭和61年に100町を超え、平成21年には173町が参加しました。
松城町が凧合戦に参加した時期は明治の末期、もしくは大正の初期頃と推測されますが、詳しいことはわかっていません。手元にある最も古い資料で昭和3年の凧合戦のパンフレットに、松城町の凧印と法被が紹介されています。
戦後再開して間もない頃(五社神社の鳥居前(本殿は焼失)にて)
江戸時代の中期、庶民の暮らしが向上し遊戯が盛んになると、長男が生まれた家庭では端午の節句に凧を揚げ、その子の健やかな成長と家門繁栄を願うという「初凧」の風習が生まれました。また、凧を揚げる町内の若衆に酒と食事を振る舞う習わしも、この頃から始まったと言われています。この「初凧」の風習は日本全国で行われ、特に太平洋沿岸地域で盛んだったようです。現在でも浜松以外に相良・横須賀(掛川)などで、まだこの風習が残っています(wikipediaより)。
浜松の凧の醍醐味は何と言っても「凧合戦」です。相手の町と糸を絡めて力強く引き、怒号と喧騒と舞い上がる砂埃の中、町同士の意地と意気のぶつかり合いは、激しさを増します。この力強く切り合いに挑む姿こそが子供の健やかな成長への祈りであり、体中汗まみれ、砂まみれになり合戦に望むその姿は昔から変わりません。
戦争のために長期にわたって中止されていましたが、戦争が終わるとすぐに復活します。参加町はしばらく50~60町程で行われていましたが、昭和50年頃から急激に増加。昭和61年に100町を超え、平成21年には173町が参加しました。
松城町が凧合戦に参加した時期は明治の末期、もしくは大正の初期頃と推測されますが、詳しいことはわかっていません。手元にある最も古い資料で昭和3年の凧合戦のパンフレットに、松城町の凧印と法被が紹介されています。
戦後再開して間もない頃(五社神社の鳥居前(本殿は焼失)にて)
松城町の歴史(その8)『浜松市動物園』 [松城町の歴史]
『浜松市動物園』
松城町に所在した「浜松市動物園」は、浜松城址の起伏の激しい地形をそのまま利用して作られました。同園は浜松駅から至近距離にあって交通の便が良く、また当時は県内で唯一の動物園ということもあって市民ばかりでなく市外からも多くの来園者が訪れ、東海地区有数の人気動物園として賑わいを見せました。
同園が開園したのは昭和25年11月20日で、その前に市制40周年記念行事として同所で「浜松市子供博覧会」が開かれていましたが、その時すでに恒久的な動物園施設を作ろうという構想がもたれ、ゾウ、ライオン、キリンなどの基幹となる動物の展示が行われています。また、博覧会では他に、当時普及していなかった自動車の展示、科学博物館、お化け屋敷などが併設されていました。
開園した動物園では、ゾウの浜子が旗振り、ラッパ吹き、挨拶などの曲芸を披露して、同園のシンボル的な存在となりました。リリーというチンパンジーが数々の芸を演じて来園者の喝采を博していましたが高齢になって引退すると、後継としてチン太が入って芸を演じます。また、ウマとシマウマの混血の「ホーブラ」がおり、珍種として話題を集めました。
同園の特色として、鳥の一大聚楽を作るという構想から水禽類が多く集められ、白鳥をはじめ、黒鳥、アヒル、鶴、ペリカン、フラミンゴ等が飼育され、ペンギンは入口付近の専用プールで展示されていました。孔雀が園内を自由に動き回っているのも同園お馴染みの楽しい光景です。他にもトラ、ヒグマ、ラクダ、ダチョウ、ワシなど多種多様な動物が飼育されていました。
また、この動物園には日本でもまだ珍しかったロープウェイが作られ、昭和30年代の初め頃まで、天守台から作左山の間を運行していました。他にも観覧車やゴーカートなどの遊具が設けられています。
昭和58年4月、周辺の都市化に伴い、動物園は現在地である浜松市北西部の舘山寺町に移転しました。これにより跡地は本格的な都市公園としての整備が始まり、浜松城の景観にふさわしい日本庭園や作左の森等が完成します。緑の少ない市街地にあって、豊かな森に囲まれた公園は浜松市のセントラルパークとして多くの市民に親しまれています。
昭和28年頃の動物園
松城町に所在した「浜松市動物園」は、浜松城址の起伏の激しい地形をそのまま利用して作られました。同園は浜松駅から至近距離にあって交通の便が良く、また当時は県内で唯一の動物園ということもあって市民ばかりでなく市外からも多くの来園者が訪れ、東海地区有数の人気動物園として賑わいを見せました。
同園が開園したのは昭和25年11月20日で、その前に市制40周年記念行事として同所で「浜松市子供博覧会」が開かれていましたが、その時すでに恒久的な動物園施設を作ろうという構想がもたれ、ゾウ、ライオン、キリンなどの基幹となる動物の展示が行われています。また、博覧会では他に、当時普及していなかった自動車の展示、科学博物館、お化け屋敷などが併設されていました。
開園した動物園では、ゾウの浜子が旗振り、ラッパ吹き、挨拶などの曲芸を披露して、同園のシンボル的な存在となりました。リリーというチンパンジーが数々の芸を演じて来園者の喝采を博していましたが高齢になって引退すると、後継としてチン太が入って芸を演じます。また、ウマとシマウマの混血の「ホーブラ」がおり、珍種として話題を集めました。
同園の特色として、鳥の一大聚楽を作るという構想から水禽類が多く集められ、白鳥をはじめ、黒鳥、アヒル、鶴、ペリカン、フラミンゴ等が飼育され、ペンギンは入口付近の専用プールで展示されていました。孔雀が園内を自由に動き回っているのも同園お馴染みの楽しい光景です。他にもトラ、ヒグマ、ラクダ、ダチョウ、ワシなど多種多様な動物が飼育されていました。
また、この動物園には日本でもまだ珍しかったロープウェイが作られ、昭和30年代の初め頃まで、天守台から作左山の間を運行していました。他にも観覧車やゴーカートなどの遊具が設けられています。
昭和58年4月、周辺の都市化に伴い、動物園は現在地である浜松市北西部の舘山寺町に移転しました。これにより跡地は本格的な都市公園としての整備が始まり、浜松城の景観にふさわしい日本庭園や作左の森等が完成します。緑の少ない市街地にあって、豊かな森に囲まれた公園は浜松市のセントラルパークとして多くの市民に親しまれています。
昭和28年頃の動物園
松城町の歴史(その7)『浜松市立中部中学校』 [松城町の歴史]
『中部中学校』
戦後の教育改革で小中高制度がスタートし、旧制中学が高等学校となり、高等学校と小学校の間に中学校が設けられることになると、その制度の申し子として、終戦直後の昭和22年4月、市立高女の跡地に浜松市立中部中学校が誕生しました。
旧市立高女跡に開校したものの、そこには焼夷弾で大穴の空いた雨天体操場があるだけで、そこが唯一の屋根のある場所でした。運動場は食糧不足のために全部が耕地化されていて、ジャガイモが作付けされていたといいます。
窓のない雨が漏る雨天体操場を6つに区切って仮教室を作り、北小から机80卓を借用し、午前登校と午後登校の2部制を実施して何とか授業が始められました。第2学期の9月末に、焼け残りの校舎の壁に屋根をつけて2教室とし2部制を廃止しますが、帰還市民の増加による生徒増に抜本的な対応策が無く、第2年度には北小と広沢小の教室を借りて、3ヶ所での分散授業を余儀なくされます。
それからも生徒増と教室増設は続き、昭和32年になると全校で37学級編成となりますが、同年蜆塚に12教室が完成し、蜆塚教場として分散授業を開始します。昭和35年には、蜆塚教場が蜆塚中学校として独立し、広沢小区の全生徒が異動しました。現在の校舎は昭和48年に落成、昭和57年に耐震補強工事が行われています。
現在、少子化や中心市街地のドーナツ化の影響により生徒数は少ないながらも、学校周辺には文化施設や史跡が多く、また伝統ある同校に対する地域住民や保護者からの関心や愛着が高く学校活動に非常に協力的であるなど、恵まれた環境の中で勉学や活動に励んでいます。
昭和25年頃の中部中学校校舎
戦後の教育改革で小中高制度がスタートし、旧制中学が高等学校となり、高等学校と小学校の間に中学校が設けられることになると、その制度の申し子として、終戦直後の昭和22年4月、市立高女の跡地に浜松市立中部中学校が誕生しました。
旧市立高女跡に開校したものの、そこには焼夷弾で大穴の空いた雨天体操場があるだけで、そこが唯一の屋根のある場所でした。運動場は食糧不足のために全部が耕地化されていて、ジャガイモが作付けされていたといいます。
窓のない雨が漏る雨天体操場を6つに区切って仮教室を作り、北小から机80卓を借用し、午前登校と午後登校の2部制を実施して何とか授業が始められました。第2学期の9月末に、焼け残りの校舎の壁に屋根をつけて2教室とし2部制を廃止しますが、帰還市民の増加による生徒増に抜本的な対応策が無く、第2年度には北小と広沢小の教室を借りて、3ヶ所での分散授業を余儀なくされます。
それからも生徒増と教室増設は続き、昭和32年になると全校で37学級編成となりますが、同年蜆塚に12教室が完成し、蜆塚教場として分散授業を開始します。昭和35年には、蜆塚教場が蜆塚中学校として独立し、広沢小区の全生徒が異動しました。現在の校舎は昭和48年に落成、昭和57年に耐震補強工事が行われています。
現在、少子化や中心市街地のドーナツ化の影響により生徒数は少ないながらも、学校周辺には文化施設や史跡が多く、また伝統ある同校に対する地域住民や保護者からの関心や愛着が高く学校活動に非常に協力的であるなど、恵まれた環境の中で勉学や活動に励んでいます。
昭和25年頃の中部中学校校舎