-| 2011年02月 |2011年03月 ブログトップ
- | 次の10件

松城町の歴史(その6)『浜松開誠館』 [松城町の歴史]

『浜松開誠館』

大正13年に「馬冷」に誠心高女(現浜松開誠館高校)が開校します。当時、男子には浜松中学校(現浜松北高校)、商業学校(現浜松商業高校)、工業学校(現浜松工業高校)がありましたが、女子は市立高女のみで西遠女子学園、浜松学芸高校の前身はまだ裁縫学校の域を脱していない状況にあり、こうした状況をみた実業家の長谷川鉄雄氏が松城の自宅3000坪を解放し、ここに女子学校を開校します。

はじめ4年制で定員が400名、次いで昭和2年に5年制定員500名となり、その年に新校舎が落成します。この校舎は浜松出身の建築家、中村與資平氏による設計で、一部を当時では珍しい鉄筋コンクリートで建てられました。昭和20年4月、空襲による火災で木造部分を焼失しますが、鉄筋部分は焼け残ったため戦後しばらくそこで授業が続けられたといいます。

昭和23年に木造校舎が落成、昭和35年には鉄筋コンクリートの3階建て校舎が落成し、以降次々に施設・設備の拡充がはかられています。平成10年に共学化となり、それに伴って学校名を「浜松開誠館中学校・高等学校」に変更。平成12年には、地上9階建ての新校舎が落成しました。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

松城町の歴史(その5)『浜松高等女学校』 [松城町の歴史]

『浜松高等女学校』

かつて「馬冷」には現在の浜松市立高校の前身の浜松高等女学校がありました。同校は明治34年4月に、元城にあった浜松幼稚園の建物を借りて授業を開始しますが、生徒の増加に伴って明治37年に「馬冷」に校舎を新築して移転します。明治38年、39年にそれぞれ50名ずつ入学し、明治40年には定員が400名と倍増され、1学年100名を入学させることになりました。

明治44年に市制施行によって浜松市立浜松高等女学校に改称し、いつ頃からか一口に「いちりつ」と呼ばれるようになります。

校舎があったのは現在の開誠館高校と中央図書館の間の一帯で、敷地には木々が鬱蒼と茂りその周りには堀につながる小さな川が廻っていましたが、現在は住宅地になっていて当時の面影は残っていません。また、校舎西側には長谷川鉄雄氏の私邸(現浜松開誠館)の一画を借りて、寄宿舎「曳馬野寮」(木造2階建て)が作られています。

卒業生で作家の「鷹野つぎ」女史は、著書「春夏秋冬」の中で、馬冷の校舎を次のように記しています。

『閑寂な一郭で、前方の天主閣の外濠を距てて、 森が土堤をなぞへに見透しもつかないほど深々と繁ってゐた。 春先は爽やかな新緑に彩られ、 夏は森をわたる風で涼気を送ってきた。 秋は紅葉がところどころ点綴せられて美しかった。』

入学希望者が多く、大正12年には定員800人まで膨れ上がりますが、それでも倍以上の志願者が殺到したと言います。馬冷校舎も手狭となり、同年「作左山」に校舎を新築し移転します。灰青色のペンキで塗られた作左山の新校舎は、木造2階建ての敷地3455坪、建物860坪、運動場200坪と旧校舎の3倍近い広さがありました。

昭和20年、太平洋戦争の空襲によって校舎が焼失し、これを機に市立高女は広沢の浜松工業学校の跡地へと再移転、その場所は中部中学校となって現在に至ります。今でも中部中学校の石段で結んだ上下二段の運動場の配置は市立高女時代と同じで、石段わきの藤棚と大きな銀杏の木も、当時と変わらぬ場所にあります。


「鎧掛けの松(右)と馬冷校舎(左奥)」
鎧掛けの松(右)と馬冷校舎(左奥)1.jpg

























「作左山校舎」
sakuzayamakousya.JPG


松城町の歴史(その4)『作左』 [松城町の歴史]

『作左』「作左」の地名の由来となった「本多(作左衛門)重次」は、『仏高力(高力清長)、鬼作左、どちへんなしの天野三郎兵衛(天野康景)』と謳われた家康三河時代からの三奉行の一人で、勇猛果敢で剛毅な性格より「鬼作左」と称されました。鬼の名を付けられるような厳格な人物でしたが、公平清廉で民衆から慕われていたと言います。武将としても三河一向一揆鎮圧戦、高天神の戦い、長篠の戦い、蟹江城攻略などで大いに活躍し戦功を挙げました。また、これらの合戦による戦傷のため、片目片足で指も何本か欠損していたとも伝えられています。小牧・長久手の戦の後、秀吉の要請により家康が大坂(大阪)城へ上洛する際に、秀吉の母大政所が人質として岡崎に下向します。その世話役を務めた重次は、居館に柴を積み上げ「家康公万が一の時には火を掛ける」と脅したことで秀吉から不興を買い、この一件により重次殺害の命がありましたが家康は病死したと報告し、上総国古井戸に閑居させています。のちに下房国相馬郡井野(茨城県取手市井野)に移り68歳で没します。家康は、自分が天下人となった時、嫡男である本多成重に越前国丸岡藩主(四万石)を与え彼の恩に報いました。かつて、陣中から留守を預かっている妻に宛てた手紙は、現在でも実用手紙の模範とされている有名なものです。 『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ』火の用心をし、子供を大切に育てて欲しい、馬に十分に餌を与えるように。出陣中は、妻のお前が家を大切に守れというものです。当時の武将にとって、馬は一番大事な戦具の一つでした。このお仙は、長男の成重のことです。作左の名は、今でも浜松城公園の中に「作左山」、「作左の森」として残されています。また、中部中学校では生徒を主体とする活動を「さくざ」と称し、校歌や家庭への通信にもこの名が使用されるなど、この所縁ある歴史上の人物を大切に扱っています。本多重次像画像
- | 次の10件
-|2011年02月 |2011年03月 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。