浜松まつりの歴史 [浜松まつり]

遠州灘から「遠州のからっ風」とも呼ばれる強い風が吹く浜松は、昔から凧揚げが盛んな土地でした。

江戸時代の中期、庶民の暮らしが向上し遊戯が盛んになると、長男が生まれた家庭では端午の節句に凧を揚げ、その子の健やかな成長と家門繁栄を願うという「初凧」の風習が生まれました。また、凧を揚げる町内の若衆に酒と食事を振る舞う習わしも、この頃から始まったと言われています。この「初凧」の風習は日本全国で行われ、特に太平洋沿岸地域で盛んだったようです。現在でも浜松以外に相良・横須賀(掛川)などで、まだこの風習が残っています(wikipediaより)。

浜松の凧の醍醐味は何と言っても「凧合戦」です。相手の町と糸を絡めて力強く引き、怒号と喧騒と舞い上がる砂埃の中、町同士の意地と意気のぶつかり合いは、激しさを増します。この力強く切り合いに挑む姿こそが子供の健やかな成長への祈りであり、体中汗まみれ、砂まみれになり合戦に望むその姿は昔から変わりません。

戦争のために長期にわたって中止されていましたが、戦争が終わるとすぐに復活します。参加町はしばらく50~60町程で行われていましたが、昭和50年頃から急激に増加。昭和61年に100町を超え、平成21年には173町が参加しました。

松城町が凧合戦に参加した時期は明治の末期、もしくは大正の初期頃と推測されますが、詳しいことはわかっていません。手元にある最も古い資料で昭和3年の凧合戦のパンフレットに、松城町の凧印と法被が紹介されています。

戦後再開して間もない頃(五社神社の鳥居前(本殿は焼失)にて)
五社神社の鳥居前(昭和23年頃).jpg
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松城町の歴史(その8)『浜松市動物園』 [松城町の歴史]

『浜松市動物園』

松城町に所在した「浜松市動物園」は、浜松城址の起伏の激しい地形をそのまま利用して作られました。同園は浜松駅から至近距離にあって交通の便が良く、また当時は県内で唯一の動物園ということもあって市民ばかりでなく市外からも多くの来園者が訪れ、東海地区有数の人気動物園として賑わいを見せました。

同園が開園したのは昭和25年11月20日で、その前に市制40周年記念行事として同所で「浜松市子供博覧会」が開かれていましたが、その時すでに恒久的な動物園施設を作ろうという構想がもたれ、ゾウ、ライオン、キリンなどの基幹となる動物の展示が行われています。また、博覧会では他に、当時普及していなかった自動車の展示、科学博物館、お化け屋敷などが併設されていました。

開園した動物園では、ゾウの浜子が旗振り、ラッパ吹き、挨拶などの曲芸を披露して、同園のシンボル的な存在となりました。リリーというチンパンジーが数々の芸を演じて来園者の喝采を博していましたが高齢になって引退すると、後継としてチン太が入って芸を演じます。また、ウマとシマウマの混血の「ホーブラ」がおり、珍種として話題を集めました。

同園の特色として、鳥の一大聚楽を作るという構想から水禽類が多く集められ、白鳥をはじめ、黒鳥、アヒル、鶴、ペリカン、フラミンゴ等が飼育され、ペンギンは入口付近の専用プールで展示されていました。孔雀が園内を自由に動き回っているのも同園お馴染みの楽しい光景です。他にもトラ、ヒグマ、ラクダ、ダチョウ、ワシなど多種多様な動物が飼育されていました。

また、この動物園には日本でもまだ珍しかったロープウェイが作られ、昭和30年代の初め頃まで、天守台から作左山の間を運行していました。他にも観覧車やゴーカートなどの遊具が設けられています。

昭和58年4月、周辺の都市化に伴い、動物園は現在地である浜松市北西部の舘山寺町に移転しました。これにより跡地は本格的な都市公園としての整備が始まり、浜松城の景観にふさわしい日本庭園や作左の森等が完成します。緑の少ない市街地にあって、豊かな森に囲まれた公園は浜松市のセントラルパークとして多くの市民に親しまれています。


昭和28年頃の動物園
昭和28年頃の動物園.jpg

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